マチスのデッサンがすてき

マチスのデッサン クロッキー

マチスのデッサンが好きと昨日書きました。
ちょっと勉強してみようと思って検索したことを書きます。

以下はマティスの言葉 デッサンについて 大島博光さんの文章から引用しています

まずはデッサンの基本概念です。
レイモン・コニアさんという人の文章のようです。

デッサンは大きく二つの種類にわけられよう。陰影をつけないデッサン dessin au trait と筆によるデッサンの二つである・・・現実の再現にアプローチし、量感、質感、空間感覚を生みだすには、陰影やぼかしを用いたデッサンの方が都合いい。しかし陰影をつけないデッサンには、どんな策略も加える余地がない。それは暗示するだけである。一つの量は、一本の輪郭線によって表現され、一つの動きは、一つのアラベスクによって表現される。マティスのデッサンは、どんな遠近法も、線影も、陰影も用いずに、なんとそれらの感覚を奇跡的に生みだしていることだろう?一つの顔や座布団(クッション)をかこむ輪郭線が、なんと皮膚の感じや布切れの感じを観る者に与えることだろう? このようなデッサンは、芸術の極致である正確な知識と技法を必要とするもので、それは巨匠にだけぞくするものである・・・」(『二○世紀のデッサンと水彩画』)レイモン・コニア

大島博光さんという方は詩人でありフランス文学者であった人のようで2006年に95歳でなくなっています。長野出身の方で大島博光記念館が地元に作られており私が引用した記事は『美術運動』1988年2月となっています。

大島さんの記事以外にはマチスのデッサンについてのまとまった記事を見つけられませんでした・・・
大島さんの文章も1988年ということで
なんだか軽いうすっぺらい時代
になっているように思います。

そしてマチスの言葉から
私が切り抜いた部分を載せます。
文章が長いです。
高尚で難しいです。
こういう文章を読むのは苦手なので
飛ばし読みで、「ああ、そうだな」と思ったところを色付けします。

このように、ペンによってデッサンを描く前に、わたしがありのままの自然なものを研究するのは、優雅さを現わすためである。わたしはけっして荒々しさを受け入れない。反対にわたしは舞踊家や曲芸師のようなものだ─彼らは観衆の前で、一連のダンスの、ゆっくりとした、あるいは激しい運動によって、あるいは優雅な旋回によって、自分の感動を表現しようとするとき、肉体のすべての部分が自分の思うままになるように、彼らは一日の初めに、いろいろな柔軟体操を数時間も行うのである。
 わたしはつねにデッサンというものを特殊な巧みさ・器用さの訓練とはみなさないで、何よりも内面の感情や心境を表現する一方法とみなしてきた。しかもその表現にいっそうの単純さ、率直さを与えるために単純にした方法とみなしてきた。そういう表現が重苦しさを与えることなしに観衆の精神に訴えるのである。

人物像としてのわたしのモデルたちは、内心においてだしに使われる端役などではけっしてない。彼女たちはわたしの制作の主要な主題である。わたしは自分が思うままに観察するモデルにまったく依存する。それからモデルにもっともありのままの姿に合ったポーズをとらせるように決める。わたしが新しいモデルを採用するとき、わたしがそのモデルにふさしいポーズとして判断するのは、彼女がのんびりとくつろいでいる状態であって、わたしはその奴隷となる。わたしはこういう若い娘たちをしばしば数年のあいだ、興味のなくなるまで、モデルとして採用する。わたしの造形的形象は、恐らく彼女たちの精神状態(好きな言葉ではないが)を表現するもので、わたしはそれに無意識に興味を抱くのだが、さもなければそのとき興味を抱く何があろう?彼女たちの形姿はつねに完璧というわけではない。しかし彼女たちはつねに表現ゆたかである。彼女たちがわたしに与える情感的興味は、彼女たちの肉体を表現した部分には特に目立って現れないで、それはしばしば、画布や画用紙の上にまき散らされた風変りな線やヴァルールによって示される。その線やヴァルールはわたしの興味のオーケストレーションであり建築である。しかしだれにでもそれがわかるというわけではない。それは純化された悦楽であって、恐らくまだすべてのひとにわかるというものではあるまい

要するに、わたしは理論なしで描く。

影をつけない線だけによるわたしのデッサンは、わたしの感動をあらわす直接的で、もっとも純粋な表現である。方法の単純化によってそれが可能となる。けれども、それらのデッサンは、それらを一種の下書き(クロッキー)とみなすある人たちの眼に見えるかもしれない以上に完璧なものである

本質的な真実は、それを表現する芸術家の見方、考え方によってニュアンスを与えられ、活気づきさえするのである。
 正確さは真実ではない。

おぼろに感じていたマチスのデッサンの魅力が画家自らの言葉で表現されています。

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私は自分のクロッキーを邪道と見ていました。
骨格も筋肉もあまり意識しないし
描き込まないし
陰影もつけたくないし

江戸から明治の時代
西洋画の技術によって肖像画を描かれた日本人は
「私の顔にこんなシミはない」と思ったそうです。
どこかにそんなことが書いてました。

日本人に陰影の感覚はないのだと思います。
そして日本はマンガの国です。
線で持って表現する国です。
本当は顔の輪郭にも体にも線などないのです。

マチスの言葉は私に嬉しい言葉でした。
調べてよかった!

絵を描きます

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